生涯
出自

尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に百姓と伝えられる「木下弥右衛門・なか」の子として生まれた。

生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。弥右衛門の素性には諸説がある(注:出身・家系の項目を参照)。誕生日は1月1日、幼名は日吉丸となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣伊藤秀盛の願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力である。

広く流布している説として、父・木下弥右衛門の戦死後、母・なか(のちの大政所)は竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、家を出て侍になるために駿河国に行ったと言われる。

『太閤素性記』によると7歳で実父弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳の時亡父の遺産の一部をもらい家を出て放浪したとなっている。しかし、『太閤記』では竹阿弥を秀吉の実父としており、木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻ねねの母方の姓とする説もある。

秀吉の出自については、文学博士、歴史学者の小和田哲男は大工・鍛冶等の技術者集団説を採り、歴史学者石井進は行商人説など非農業民とする説を採る。また日本家紋研究会の高澤等は、秀吉の一族が用いる沢瀉紋と、秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、水野氏説のある継父竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの説を歴史読本に寄稿しているが、現時点では謎が多くほとんど不明と言える。

今川家臣時代

はじめ木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗り[2]、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(松下加兵衛)に仕え、今川家の陪臣となった。

藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した[3]。

その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国内に1,600石を与えられ、天正18年(1590年)には1万6,000石と頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。

信長の家臣時代

天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕える[4]。清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果をあげた[5]。そうして信長の歓心を買うことに成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていった。この頃、その風貌によって信長から「猿」「禿げ鼠」と呼ばれていたらしい(注:容姿の項目を参照)。

永禄4年(1561年)[6]、浅野長勝の養女で杉原定利の娘ねねと結婚する。 美濃国の斎藤龍興との戦いのなかで、墨俣一夜城建設に功績を上げた話が有名だが、『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく江戸時代の創作であるとする説が強い。このころ斎藤氏の影響下の美濃より竹中重治(竹中半兵衛)、川並衆の蜂須賀小六、前野長康らを配下に組み入れている。

永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されている(観音寺城の戦い)。同年、信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任される。当時の文書に秀吉の名乗りが見られる(「秀吉」名の最古の記録は永禄3年8月付の書状)。

元亀元年(1570年)、越前国の朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。

浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、池田勝正や明智光秀と共に秀吉はしんがりを務め功績をあげた(金ヶ崎の退き口)[7]。その後も浅井・朝倉との戦いに功績をあげる。

織田政権下

天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。この頃、家内で有力だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、木下姓を羽柴姓に改めている(羽柴秀吉)。

近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などの有望な若者を積極的に登用した。 天正4年(1576年)、越後国の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長・柴田勝家への救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還してしまった。その後、勝家らは上杉謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒したが許され、秀吉は織田信忠の指揮下で松永久秀を滅ぼし功績を挙げる(信貴山城の戦い)。 その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨国に進軍し、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房、別所長治、小寺政職らを従える。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼす。 天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防(上月城の戦い)の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻したことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。

天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃、途上において竹中半兵衛や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、降した(三木合戦)。同年、但馬国の山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏においた。

天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続いた。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。

天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。 このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮している。

信長の死から清洲会議まで

天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都・本能寺において明智光秀の謀反により殺された(本能寺の変)。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(中国大返し)。

秀吉勢の出現に驚愕した明智光秀は、6月13日、山崎において秀吉と戦ったが、池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は落武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。 6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。織田家筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(織田秀信)を推した。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人とすべきであるという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。

信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張、織田信孝が美濃、織田信包が北伊勢と伊賀、光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後、筒井順慶は大和、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江の滋賀・高島15万石の加増、池田恒興は摂津尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江佐和山を与えられた。

勝家も秀吉の領地であった近江長浜12万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国や山城国、河内国を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのである。

柴田勝家との対立

秀吉と勝家の対立は、日増しに激しくなった。原因は秀吉が山崎に宝寺城を築城し、さらに山崎と丹波で検地を実施し、私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったためであるが、天正10年(1582年)10月に勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。これに対して秀吉は10月15日、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行なうことで切り抜けている。 12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、12月9日に池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入った。そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏した。

12月16日には美濃に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斉藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。 天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷や細川忠興、山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにも関わらず、優勢であった。 2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めるなど、はじめは勝家方が優勢であった。

4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。

4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。

5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。こうして、反秀吉陣営を滅ぼした秀吉は、信長の後継者としての地位を確立したのである。

徳川家康との対立

天正12年(1584年)、信長の次男・織田信雄は、秀吉に年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友であった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。

これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃の池田恒興(勝入斎)をも、尾張と三河を恩賞にして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。 しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を破ったのである(羽黒の戦い)。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。 そのような中、前の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし、奇襲部隊であるにも関わらず、行軍は鈍足だったために家康の張った情報網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死してしまった(長久手の戦い)。 こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにも関わらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。

秀吉は加賀井重望が守る加賀井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策してゆく。また、信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実で、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。また、家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退することとなった。

家康は次男・於義丸を秀吉の養子(=人質)として差し出し、「羽柴秀康(のちの結城秀康)」とし講和した。戦後、秀吉は権大納言に任官されている。

その後、秀吉は天正14年(1586年)には妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。

豊臣政権と紀伊・四国・越中攻略

天正11年(1583年)、石山本願寺の跡地に大坂城を築く。豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。しかし城の一部に防御上の問題が有り、秀吉自身もそこを気にしていたと言われている(のちの大坂の役で真田信繁(幸村)は、防御の弱さを指摘されていた箇所に真田丸と呼ばれる砦を築き、大坂城の防御を大幅に強化し、徳川勢を大いに苦しめた)。

天正12年(1584年)には朝廷より将軍任官を勧められたが断ったとする説がある[8]。 天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官された。そして3月21日には紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破る。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで平定した(紀州征伐)。 また、四国の長宗我部元親に対しても、弟・羽柴秀長を総大将として、毛利輝元や小早川隆景らも出陣させるという大規模なもので、総勢10万という大軍を四国に送り込んだ。これに対して元親は抵抗したが、兵力の差などから7月25日、秀吉に降伏する。元親は土佐国のみを安堵されることで許された(四国征伐)。

7月11日にはかねてから紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に便乗し、近衛前久の猶子として関白宣下を受け、天正14年(1586年)9月9日には豊臣の姓を賜って[9]、12月25日、太政大臣に就任し[10]、政権を確立した(豊臣政権)。なお、秀吉は征夷大将軍職に就いて「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られたために関白職を望んだという俗説もあるがこれは後の創作[11]である。

越中国の佐々成政に対しても8月から征伐を開始したが、ほとんど戦うこと無くして8月25日に成政は剃髪して秀吉に降伏する。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。

九州征伐

そのころ九州では大友氏、龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。

天正13年(1585年)関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令(後の惣無事令第一号)を発したが九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることになる。

天正14年(1586年)には豊後国戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親、信親親子・十河存保・大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗した(戸次川の戦い)。 だが天正15年(1587年)には秀吉自らが、弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久を降伏させる(九州征伐)。こうして秀吉は西日本の全域を服属させた。

九州征伐完了後に博多においてバテレン追放令を発布したが、事実上キリシタンは黙認された。天正16年(1588年)には刀狩令を出し大規模に推進した。

小田原の役

天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。同年、後北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に関東に遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。

太閤記を参考にすると秀吉は、奥羽の諸氏に小田原に参陣するように命令したが、伊達政宗は遅参した。秀吉は奥州の田舎太守(政宗)をうごめく虫と評し、政宗は恐れ入ったという。秀吉は大器、天威、所世の人の及ぶべくもないと評され、格の違いを見せ付けた。

政宗が首尾よく帰国すると諸将は虎を放つのは危険と進言したが、歯向かえば討伐すればよいと語り諸将は頭を下げたという。 小田原城は上杉謙信や武田信玄も落とせなかった堅城である。しかし、季節的な理由で兵を引く可能性のない包囲軍の前では無力であった。

三ヶ月の篭城戦ののちに北条氏政・北条氏直父子は降伏した。氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された。この一連の戦闘を小田原の役という。

天下統一

後北条氏を下し天下を統一する。秀吉は戦国の世を終わらせた。一方で臣従させた伊達氏のように、戦争を行っていない諸大名は軍事力を温存することができた。これらの有力諸大名の処遇が、秀吉政権の課題となった。

天正19年(1591年)に後継者に指名していた鶴松が病死した。そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り[12]、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる[13]。 さらに茶人千利休に自害を命じた。利休の弟子の古田織部、細川忠興らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹した。その首は一条戻橋に置かれ公開された。

この事件の発端には諸説がある。 同年には東北の南部氏一族、九戸政実が、後継者争いのもつれから反乱を起こした。

南部信直の救援依頼に、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷・浅野長政・石田三成ら九戸討伐軍を派遣した。東北諸大名もこれに加わり6万の軍となった。戦いの後に九戸政実・実親は降伏した。九戸氏は豊臣秀次に一族とともに斬首され滅亡し、乱は終結した。

文禄の役

文禄元年(1592年)、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥として16万の軍勢を朝鮮に出兵した。

初期は朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵の抵抗や明の援軍の到着によって戦況は膠着状態となり、文禄2年(1593年)、明との間に講和交渉が開始された。

秀次事件

一方、文禄2年(1593年)に側室の淀殿が秀頼を産むと、秀次との対立が深刻となる。2年後の文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次を「殺生関白」(摂政関白のもじり)と呼ばれたほどの乱行を理由として廃嫡し、高野山へ追放。

のちに謀反の容疑で切腹を命じた。秀次の補佐役であった古参の前野長康らも切腹処分となったほか、秀次の妻子などもこの時処刑された。秀次の乱行が実際にあったかには諸説あり、実子が生まれたので秀次が邪魔になったという見方もされている。

慶長の役

文禄5年(1596年)、文禄2年から続いた明との間に講和交渉が決裂し、慶長2年(1597年)、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2ヶ月で慶尚道、全羅道、忠清道を席捲、京畿道に進出後、南岸に城塞(倭城)を築いて久留の計が取られることとなる。

このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受け苦戦したが、援軍を得て大破した(第一次蔚山城の戦い)。同年の貴族の日記に、大阪城にいる秀吉のもとに象が連れて来られたと記録されている。

最期

1598年(慶長3年)5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった[14][15][16]。そして、自分の死が近いことを悟った秀吉は同年7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼した[16][17]。

また、同月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・前田利家・徳川秀忠・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた11か条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した[18]。同年8月5日、秀吉は5大老宛てに二度目の遺言書を記し、同月18日、秀吉はその生涯を終えた[18][19]。

秀吉の死はしばらくの間秘密とされることとなった[20]。なお、秀吉の死因については現在も不明である[18]。死の直後に通夜も葬儀も行われないまま、その日のうちに伏見城から阿弥陀ヶ峰に遺体を移し埋葬され、家督は秀頼が継いだ。

辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」。 この後朝鮮では、第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、 順天城の戦いで次々と明・朝鮮軍を撃破していた。しかし秀吉の死去にともない朝鮮からの撤兵が決まり、朝鮮出兵は終了した。

この戦争は、朝鮮には国土の荒廃と軍民の大きな被害をもたらし、明には莫大な戦費の負担と兵員を損耗によって滅亡の一因となった。秀吉の墓は壮麗に築かれたものの、没後の混乱のため、葬儀は行なわれなかった。