政策

■秀吉は、政策面では織田信長を踏襲し、楽市楽座・朱印船貿易による商業振興と都市の掌握・貨幣鋳造による商業統制を行った。太閤検地と刀狩は税制を確立させ、兵農分離と身分の格差を徹底させて江戸時代の幕藩体制の基礎を築いたと評価される(但し、近年では刀狩については不徹底に終わったという見方も有力である)。

■秀吉は当初はキリシタンに好意的であったが、宣教師による信仰の強制、キリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食、日本人を奴隷商品として国外へ売却していた事などを理由に、天正15年(1587年)、伴天連追放令(バテレン追放令)を出した。幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は、宣教師の行いを通じて、スペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していた事が強調されている(関連:サン=フェリペ号事件)。

しかし、スペインやポルトガルが日本征服を意図し、計画していたことについては正確な証拠がない。

イエズス会員の書簡においては、明征服や九州征服に関する単独の提案があったのは確実であるが[22]、そういった提案は、スペインやポルトガルの高官によって無視されていた。 また、秀吉の朝鮮出兵、いわゆる文禄・慶長の役の動機については諸説あるものの、最近の研究では、スペインやポルトガルの明征服への対抗策であったという説がある[要出典](この説の裏づけとして、文禄3年(1593年)、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府を「支那に至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と手紙で恫喝している)。

さらに大明国で皇帝になる妄想を持っていたと書かれた古文書もある[要出典]。

■秀吉の対外認識について示す文書の1つに、九州遠征中の天正15年6月1日付で本願寺顕如に充てた朱印状の中で、「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」(「本願寺文書」)とある。

「我朝之覚」とは神功皇后の三韓征伐の際の三韓服従の誓約あるいは天平勝宝2年(752年)に孝謙天皇が新羅の使者に伝えた新羅国王の入朝命令と考えられ、この例に倣って高麗(李氏朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考えて、直後に李氏朝鮮に対してその旨の使者を送っている[23]。

これは朝鮮が惣無事令などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示すもので、実際に5月9日の段階で秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性に対して「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記して、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もある事を示す書状を送っている。こうした考え方が、文禄・慶長の役における対朝鮮政策にも深く影響していたと考えられている[24]。

■人事においては、石田三成や大谷吉継らは文治・吏僚派、加藤清正や福島正則らを武断派として用いた。秀吉としては個人の能力に見合った仕事を与えることで両派を形成したのだと思われるが、両派を分断したことは秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂を招くことにもつながった。

■織田信長が重臣の林秀貞や佐久間信盛らを追放したことは有名だが、秀吉も神子田正治や尾藤知宣らを追放し、さらに軍師であった黒田孝高も冷遇して中枢から排除している。これらの面々は信長時代から秀吉に仕えていた譜代の家臣とも言ってよい人物だったため、その追放は譜代の家臣がいなかった豊臣家の衰退につながったと言っても過言ではない。

■天下統一後の政権の中に、秀吉に縁の深い家臣団という一群と、外様大名という一群の二つの勢力が存在し、死後の政局争いの元となっている。

■蒲生秀行、小早川秀秋ら諸大名を大した罪でも無いのに若年などを理由に減封・移封したことは、関ヶ原の戦いで彼らを東軍(徳川方)につかせる一因を成した。