人物
出身・家系

■秀吉の父・弥右衛門は百姓であったとされるが、百姓=農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある(一説に秀吉自身は仕官以前の放浪時代に針の行商人であったという。また漂泊民の山窩出身説もある)。太田道灌や北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、秀吉が初めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。つまり、それ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている。

当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例であった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。秀吉の真の出自と初期の人生についてはいまだ謎に包まれている側面が大きいとも言える。

■秀吉は好色・女好きで知られ、多くの側室をおいていたが(ルイス・フロイスは「日本史」において「300名の側室を抱えていた」と記録している)それに対し正室である高台院はじめ、ほとんどの側室との間にも子供が生まれず、子供の数は生涯を通じても非常に少なかった。これは秀吉自身が子供ができにくい体質であったためと思われる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が他の者(大野治長など)と通じて成した子であるとする説もある。

■生涯において子宝に恵まれにくかった秀吉であるが、長浜城主時代に一男一女を授かったという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で「秀勝」と言ったらしい。長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、秀吉に男の子が生まれ、そのことに喜んだ秀吉からお祝いの砂金を贈られた町民は、山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが、始まりと伝えられている。しかし、実子秀勝は、幼少で病死(その後、秀吉は、2人の養子を秀勝と名付けている)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像といわれる子どもの肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子については、名前を含め詳細不明であるが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に次のような銘記がある。

「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」これは秀吉が、天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したと近江坂田郡誌に記載されている。

秀吉は長浜城時代に秀勝ともう一人の女の子が授かっていることになる。しかし、舎那院では現在、秀吉の母である大政所のために寄進されたものであると説明している。多聞院日記によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で亡くなっているとされているので年代にズレがある。「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が妥当である。

■関白就任時に萩中納言のご落胤と主張した(もちろん公家に萩中納言という人物は存在しない)。

容姿

■秀吉が猿と呼ばれたことは有名であるが、絵に残っている秀吉の容姿から「猿」を連想し、「猿」という呼び名は見た目から来たという説が流布するようになったと言われている。秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書などの中で「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するものという説もある。また、信長は「猿」と呼んでいないとの主張(一説に織田家中で陰口として猿と呼ばれていて、秀吉は猿と呼ばれるのを非常に嫌い、猿と呼んだものには容赦をしなかったという)もあり、藤田達生は山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したと推測している。

「禿げ鼠」の呼び名も、信長のねねへの書状の中で秀吉を叱責する際に一度触れられたのみで、常用されていたわけではないと言われている。

■秀吉は指が一本多い多指症だったとルイス・フロイスの記録や前田利家の回想録「国祖遺言」に記されている。後者によれば右手の親指が一本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。

当時は(現在もそうだが)、多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても六指で生涯を通し、天下人になるまでその事実を隠すことがなかったという。しかし、天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。

現在では、前田利家の証言記録などから六指説を真説とする考えが有力であるものの、一次資料が存在しないこともあり、いまだにこのことに触れない秀吉の伝記は多い。

近年発表された小説でさえこの説を奇説扱いするなど、まだ一般に認知されるには至っていない。なお。戦国時代を題材にした漫画では、センゴクとシグルイがこの説を取り入れており、これらの作品に登場する秀吉は六指である。

■身長は不明。150cm下から160cm余まで諸説ある。

■秀吉は髭が薄かったため、付け髭をしていたという有名な逸話がある(ただ当時の戦国武将が髭を蓄えるのは習慣であり、薄いものが付け髭をするのは普通のことであった)。

死因

■様々な説が唱えられており、有名な説の一つに脳梅毒によって死亡したというものや、痢病(赤痢・疫痢の類)とするもの(『日本西教史』)、珍説としては朝鮮の古文書である『燃黎室記述』に沈惟敬が毒殺したなどと言うものまである(沈惟敬が日本に来たのは慶長元年(1596年)で、秀吉が死亡したのはその三年後である)。

■晩年は老衰のためか失禁したと記録されている(『駒井日記』)。

人柄など

■ドラマなどでは人を殺すことを嫌う人物のように描写されることの多い秀吉であるが、実際には元亀2年に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』や『信長公記』より)、天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑する(同年12月5日の羽柴秀吉書状より)等、晩年だけでなく信長の家臣時代でも、少なくとも他の武将並みの残酷な一面があったようである。

■母親の大政所への忠孝で知られる。小牧・長久手の戦いの後、必要に迫られて一時徳川方に母と妹を人質に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、妻の北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出しており、そのうちの幾つかは現存している。

朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、結局臨終には間に合わなかった。秀吉が親孝行であったことは明治時代の国定教科書でも好意的に記述された。

■戦国大名は主君と臣下の男色(いわゆる「衆道」)を武士の嗜みとしていた(有名なのは織田信長と森蘭丸などである)。しかし秀吉には男色への関心がまったくと言ってよいほどなかった。

男色傾向の無さを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び入れ、秀吉に会わせ二人きりにさせたのだが秀吉はその少年に「お前に妹か姉はいるか?」と聞いただけだったとされる。

■非常に世評を気にする人物であった。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。一方、聚楽第に書かれた自身を非難する落書が書かれた際は当番の兵を処刑し、作者を探し出して自害させている。