生涯
少年期

天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男として、勝幡城(那古野城説もある)で生誕。

幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官、下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家、即ち清洲織田家の分家にして同家重臣たる清洲三奉行・古渡城主の家柄であった。

母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇矯な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称された。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。

また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。 まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送されていたが、松平氏家中の戸田康光の裏切りにより、織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期をともに過ごし、のちに両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、織田上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した。天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。

天文20年(1551年)、父・信秀が没したため、家督を継ぐが、その葬儀において祭壇に抹香を投げつけた[3]。 天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。

これは、奇行が目立つ信長を諌めるための諫死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためとも言われる。信長は嘆き悲しみ、沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。

家督争いから尾張統一

当時、尾張国は守護大名の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡の守護代であった「織田大和守家」当主にして清洲城主・織田信友が実権を掌握していた。

しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その秀でた智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していた。信秀の死後、信長が後を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持し、信長と敵対し、信長謀殺計画を企てた。

しかし、信友により傀儡にされていた尾張国守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告した。これに激怒した信友は、義統の嫡男・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。 このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君・義統を殺した謀反人として殺害する。

こうして尾張下四郡の守護代「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。織田氏の庶家であった信長が名実ともに織田氏の頭領となった。叔父の信光も死亡しているが、死因は不明である。 弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死。信長も道三へ援軍を出したが、間に合わなかったと言われている。

こうしたなか、信長の当主としての器量を疑問視した織田氏重臣の林秀貞、林通具、柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた信長の同母弟・信勝を擁立しようとした。これに対して信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。

道三の死去を好機と見た信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。しかし、弘治3年(1557年)、信勝は再び謀反を企てる。

このとき、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病いと称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した[4]。

さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主・「織田大和守家」の宿敵で織田氏一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。

新たに守護として擁立した斯波義銀が、斯波氏一族の石橋氏と、同じく足利氏一門にあたる吉良氏と通じて信長の追討を画策していることが発覚すると、信長は義銀を追放した。 こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立した。

桶狭間の戦いから清洲同盟へ

尾張国統一を果たした翌永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河国・遠江国・三河国を支配する義元の軍勢は2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが、総兵力は5,000人。

今川軍は三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒にして、織田軍の城塞は次々と陥落していった。 信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日、幸若舞『敦盛』を舞った後、装具を身に付け出陣し、まず熱田神宮に参拝。

その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。

今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、本国駿河国に潰走した(桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いの後、今川氏はその勢力を急激に衰退させる。これを機に今川氏の支配から独立していた三河国の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。

当時、信長は美濃国の攻略のために斎藤氏と交戦しており、家康も甲斐国の武田信玄や駿河国の今川氏真らに対抗する必要があったため、利害関係が一致していた。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。

美濃攻略

斎藤道三亡き後、信長と美濃国斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。

しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。

その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。

永禄9年(1566年)には美濃国の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢国・長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。

こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[5]。 また、この頃から『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。 一方で信長は永禄8年(1565年)より伊勢国へ進出し、北畠具教など当地の諸氏とも戦っている。

上洛

このころ中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者・三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。

久秀らはさらに義輝の弟・足利義昭の暗殺も謀ったが、義昭は細川藤孝、和田惟政ら幕臣の支援を受けて京から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。

一方で、美濃国と国境を接する甲斐国の戦国大名・武田信玄に対しては、信玄の四男・武田勝頼に養女(遠山夫人)を娶せることで同盟を結んだが、遠山夫人は武田信勝を出産した直後に早世したため、嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻関係を模索し、友好関係を保つ姿勢をとるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。

そして9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の戦国大名、六角義賢・六角義治父子は織田軍の猛攻を受けて観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。

六角父子は伊賀国に逃亡、以降はゲリラ戦を展開した。ただし六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀・六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。信長が上洛すると、それまで中央を押さえていた三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、他の三好三人衆に属した勢力の多くは阿波国へ逃亡する。

唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。こうして三好長慶以来中央政治を牛耳っていた三好・松永政権は、信長の電撃的な上洛によってわずか半月で崩壊し、代わって足利義昭を第15代将軍として擁立した信長による織田政権が誕生した。

このとき、信長は義昭から副将軍の地位を勧められたが、既に足利将軍家を見限っていたため謝絶したとされる。 永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。

しかし、信長は豪雪の中を僅か2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せたといわれている[6]。 もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。

1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず、処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。

同日、信長は堺に2万貫の矢銭と、織田氏への服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三好三人衆が織田軍に敗退すると臣従を余儀無くされた。 伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。永禄11年(1568年)には神戸具盛を降伏させ、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。翌永禄12年(1569年)には伊勢国司である北畠具教も降伏させ、次男・織田信雄を北畠氏の養子として送り込む。

のち具盛は幽閉され、北畠一族は殺害されている。こうして信長は、畿内における勢力を拡大していったのである。

第一次信長包囲網

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。

しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになる。

元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前国の朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍を開始する。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井氏に背後を突かれるかたちとなった。

挟撃される形となり窮地に追い込まれた織田・徳川連合軍であったが、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉・徳川家康らの働きもあり、なんとか京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長が京に帰還したとき、従う者は僅か10名ほどであったと言われている。 これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化した。

義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺、石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。 対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。浅井軍の先鋒・磯野員昌に15段の備えのうち13段まで破られるなど[7]苦戦しつつも、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

元亀元年(1570年)8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する(野田城・福島城の戦い)。

しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井長政・朝倉義景・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。対して信長は、9月23日未明に急ぎ本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。

慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻し、信長の実弟・織田信興を戦死に追い込んだ。

いよいよ進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功した。大久保忠教の記した『三河物語』によれば、このとき信長は義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。

元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち (1571年))。 元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に降伏した。

10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐国の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。武田軍の総兵力は3万人。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江国、三河国に侵攻を開始する(西上作戦)。これに対して織田・徳川連合軍も抵抗した。

しかし、武田軍の武将・秋山信友に攻められた東美濃の岩村城では、城主・遠山景任が病死。

その景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は、信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗するが、秋山信友はこのおつやの方に対して結婚戦術を持ちかけた。おつやの方は信友と結婚することで開城・降伏し、坊丸は甲斐国に人質として送られ、東美濃の大半も武田氏の支配下に落ちた。 また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。

これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀らは討死した。 元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には三河国・野田城を攻略する(野田城の戦い)。

しかも信玄の上洛に呼応するかたちで、将軍・足利義昭が三好義継・松永久秀らと共謀して挙兵。東西に敵を抱えた信長はまたも進退に窮し、4月5日、正親町天皇から勅命を賜ることによって義昭と和睦した。4月12日、武田信玄が急死。これにより武田軍は甲斐国へ帰国した。

包囲網崩壊

武田信玄の死去によって信長は態勢を立て直した。そうして7月、二条城や槇島城に立て籠もっていた足利義昭を破り、京から追放。

これをもって室町幕府は滅亡した。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。

天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。

信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に行軍。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害し、長政の母・小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した。なお、長政に嫁いでいた妹・お市の方らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。

9月24日、信長は尾張国・美濃国・伊勢国の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢国・長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島の一向一揆による抵抗も激しく、長期戦を嫌った信長は10月25日に撤退を開始する。

ところが撤退途中に一揆軍による追撃が始まると織田軍は苦戦し、林通政が討死した。 11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。

信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。

しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。

長島一向一揆

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で殺された。

それに呼応するかたちで、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。

信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明智城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。

3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された[8]。

7月、信長は3万人の大軍を率いて、伊勢国・長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めに追い込んだ。一揆軍も巧みな戦術を見せて、信長の庶兄・織田信広など多くの織田氏一族の将が討ち取られた。しかし、8月に入ると兵糧不足に陥り、さらに織田軍の猛攻により大鳥居城が落城して一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、次第に戦況は織田軍有利に傾く。

9月29日、兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出ると信長もこれを了承した。しかし、信興や信広という兄弟を殺された信長は、一揆衆の退去する動きが遅いこともあり、船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせることで攻略した。

しかし、これに激怒した一揆側の一部が織田軍に襲いかかり、信長の弟・織田秀成らが討ちとられた。 さらに信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒に対しては、城の周囲から包囲して討ち取った。このとき、一揆衆は2万人が織田軍によって討ち取られたといわれている。この戦によって信長は長島門徒の反乱を治めることに成功した。

長篠の戦いから越前侵攻

天正3年(1575年)4月、武田勝頼は武田信玄の死後、武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。

その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。

3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。

そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。

この戦いで、信長は1,000丁余りの火縄銃を用いた一斉射撃(『信長公記』による)を行わせ、武田軍に圧勝する[9]。この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌が、信長より偏諱を賜り信昌と改名している。 前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。

門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。そして顕如の命令で守護代として下間頼照が派遣されたが、この下間頼照が前の領主である桂田長俊以上の悪政を敷いたために、一揆の内部分裂が進んでいた。

これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。 これに対して既に内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐されたといわれている[10][11]。

こうして越前国は再び織田領となり、信長は越前八郡を柴田勝家に与えた。このとき、信長は勝家に対して北国経営の掟を与えたといわれている。

第二次信長包囲網

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任する。

11月28日、信長は嫡男・織田信忠に 織田氏の家督ならびに美濃国・尾張国などの領地を譲って建前上隠居した。しかし、信長は織田氏の政治・軍事を執行する立場にあった。

天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始する。

安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたといわれている。イエズス会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。 天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。

さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。これに対し信長は4月、明智光秀、荒木村重、塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣したが大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。 大坂の織田軍は勢いづく本願寺軍の攻勢に窮して天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。

信長は5月5日に若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。しかし信長は5月7日早朝、その3,000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入った。信長自身も負傷する激戦となったが、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、本願寺軍を撃破した(天王寺砦の戦い)。

その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。

この頃、越後国の戦国大名・上杉謙信と信長との関係は悪化し[12]、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦。信長との同盟を破棄し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。 これに対し信長は、天正5年(1577年)2月、紀州雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・雑賀孫一を降伏させたという(人質の提供も無い、形だけのものといわれている)。

こうして形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。 また、この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。

大和国の松永久秀は信長を裏切り挙兵する。信長は、織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に久秀を討ち取った(信貴山城の戦い)。

久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波国・亀山城の内藤定政が病死する。織田軍はこの機を逃さず、亀山城、籾井城、笹山城などの丹波国の諸城を攻略した。

天正6年(1578年)3月13日には上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めることなく急死したため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この間、織田軍は上杉領の能登国、加賀国を攻略する。かくして謙信の死を契機に、またも信長包囲網は崩壊した。

織田方面軍団

北陸方面・柴田勝家軍団

中山方面・織田信忠軍団(滝川一益軍団)

畿内方面・明智光秀軍団 中国方面・羽柴秀吉軍団

四国方面・丹羽長秀・織田信孝軍団(天正10年結成)

対本願寺方面・佐久間信盛軍団

東海道の抑えは徳川家康

 

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた[13]。

上杉謙信の死後、お家騒動を経て上杉氏の家督を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・織田信忠、滝川一益、森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを(黒井城の戦い)、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。 織田軍は謙信の死後、上杉氏との戦いを優位に進め、能登国・加賀国を奪い、越中国にも侵攻する勢いを見せた。

天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こり、また、毛利軍は激しく抵抗し、同年7月、上月城は毛利軍の手に落ちて山中鹿之介ら尼子氏再興軍という味方を失う(上月城の戦い)。

10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し、本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力であり東摂津を領する中川清秀、高山右近は信長に降伏した。 同年11月6日、信長は鉄甲船を考案、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。

これにより石山本願寺と荒木村重は毛利軍の援助を受けられず孤立し、このころから織田軍は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。

同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族の大半が処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。

天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。同年4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略。

天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。 天正7年(1579年)、伊勢国の出城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄は、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)。

そして天正9年(1581年)、信雄を総大将とする6万人の軍勢で伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。 天正7年(1579年)、信長は徳川家康の嫡男・松平信康と、信康の生母・築山殿に対し切腹を命じた。理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。

徳川氏家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は信康に切腹させ、築山殿を殺害した(これに関しては異説もある。詳細は松平信康#信康自刃事件を参照)。 天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦さに係る不手際を理由に追放処分とした。

さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。

武田征伐

天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田氏一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった[14]。

このときの京都御馬揃えには正親町天皇を招待している。

同年5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中国に行軍し、同地の大部分を支配下に置いた。3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追いつめた。

紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。 同年に荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、高野山が信長と敵対する動きを見せた。対して使者10数人を差し向け、穏便に事を収めようとする信長であったが、高野山側は使者を全て殺害。これに激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を捕らえるとともに、河内国や大和国の諸大名に命じて高野山を包囲させた。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曽義昌が、信長に寝返りこれを受け入れた。

2月3日に武田氏に対しての大動員令を信忠に発令した。そして、駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から信忠が、それぞれ武田領への攻略を開始した。この連合軍の兵数は10万人余に上ったといわれている。

これに対して武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条伊豆守を追い出して織田軍に降伏。

さらに信濃国・松尾城主・小笠原信嶺、駿河国・田中城主・依田信蕃、駿河国・江尻城主・穴山信君らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗もできずに敗北する。 信長が武田征伐に出陣したのは3月8日であるが、その日に信忠は甲府を占領し、3月11日には甲斐国東部の田野において武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。

武田氏滅亡後に信長は、「武田に属していた者はたとえ恭順の意思を示そうとも容赦無く一族まとめて根絶やしにせよ」とする、いわゆる「武田狩り」を命じたといわれる [15] [16] [17]。

武田氏滅亡後、信長は駿河国を徳川家康に、上野国を滝川一益に、甲斐国を河尻秀隆に、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与えて北条氏直への抑えとしつつも、かつての信玄や謙信に対したのと同じ平和外交に徹し、同盟関係を保った。

本能寺の変

天正10年(1582年)夏、信長は四国の長宗我部元親攻略に、三男・神戸信孝、重臣・丹羽長秀の軍団を派遣する準備を進めていた。

同年5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。

光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。 家康接待が続くなか信長は、備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。「毛利氏が大軍を率い、高松城への救援に向かう動きがある」とのことであった。

信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。のち『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、このとき、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森蘭丸に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。

信長は5月29日、中国遠征の出兵準備のために上洛し、その後は本能寺(在京)に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃する。

この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたといわれる。

100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘したとされている。しかし圧倒的多数の明智軍を前には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したと伝えられている。

享年49(満48歳没)。(本能寺の変) 光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかったため、密かに脱出し別の場所で自害した説がある。

また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。

弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。 2007年に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されおり、現在も調査が続いている。