織田信長

織田信長

日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、世に多大な影響を残した武将であり、戦国大名であり、政治家である。

当時の常識や権力に囚われず、新しい考え方や文化を積極的に取り入れる見識の広さ、合理性と冷徹さを兼ね備えた知性によって、統一者のいなかった政治的混沌を収集に向かわせた人物である。

その事業は大方向を示したところで重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い、自刃に追い込まれたことによって頓挫した。

しかし、政権の実質的後継者となった羽柴秀吉が、信長の築いた足場をもとに天下統一を進め、ついには成し遂げることとなったことから、豊臣秀吉が継ぎ、徳川家康が完成させる形となった日本近世の形成事業の創始と言うべき位置づけにあった政治家である。

織田信長 概要

尾張国・古渡城主・織田信秀の次男または三男として生まれる[2]。 信長が嫡男として育てられたようで、幼児のときに那古屋城主となっている。

天文20年(1551年)、急死した父の後を受けて家督を継ぐも、同母弟・織田信勝(信行)と家督争いが発生する。

これに勝利すると、その後は敵対勢力を次々と下していき、尾張国を統一した。 永禄3年(1560年)、兵力的に圧倒的優位にあった今川義元を桶狭間の戦いで破り世に名を轟かせた。

永禄10年(1567年)には美濃国の斎藤氏を滅ぼし、その翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たした。義昭を将軍位につけ擁立するも次第に関係が悪化し、元亀4年(1573年)にはこれを追放した。武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る信長包囲網が結成されるが、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、元亀2年(1571年)には比叡山延暦寺の焼き討ちを断行、比叡山全体を焼き払った。

天正3年(1575年)には長篠の戦いで武田勝頼に大勝。以後、天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を用いた(織田政権)。

織田信長の生涯
幼少期

天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男として、勝幡城(那古野城説もある)で生誕。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官、下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家、即ち清洲織田家の分家にして同家重臣たる清洲三奉行・古渡城主の家柄であった。

母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇矯な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称された。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。 まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送されていたが、松平氏家中の戸田康光の裏切りにより、織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期をともに過ごし、のちに両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、織田上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した。天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。

天文20年(1551年)、父・信秀が没したため、家督を継ぐが、その葬儀において祭壇に抹香を投げつけた[3]。 天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。

これは、奇行が目立つ信長を諌めるための諫死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためとも言われる。信長は嘆き悲しみ、沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。

家督争いから尾張統一

当時、尾張国は守護大名の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡の守護代であった「織田大和守家」当主にして清洲城主・織田信友が実権を掌握していた。しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その秀でた智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していた。信秀の死後、信長が後を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持し、信長と敵対し、信長謀殺計画を企てた。しかし、信友により傀儡にされていた尾張国守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告した。これに激怒した信友は、義統の嫡男・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。 このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君・義統を殺した謀反人として殺害する。こうして尾張下四郡の守護代「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。織田氏の庶家であった信長が名実ともに織田氏の頭領となった。叔父の信光も死亡しているが、死因は不明である。 弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死。信長も道三へ援軍を出したが、間に合わなかったと言われている。 こうしたなか、信長の当主としての器量を疑問視した織田氏重臣の林秀貞、林通具、柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた信長の同母弟・信勝を擁立しようとした。これに対して信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。 道三の死去を好機と見た信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。しかし、弘治3年(1557年)、信勝は再び謀反を企てる。このとき、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病いと称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した[4]。 さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主・「織田大和守家」の宿敵で織田氏一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が、斯波氏一族の石橋氏と、同じく足利氏一門にあたる吉良氏と通じて信長の追討を画策していることが発覚すると、信長は義銀を追放した。 こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立した。

桶狭間の戦いから清洲同盟へ

尾張国統一を果たした翌永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河国・遠江国・三河国を支配する義元の軍勢は2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが、総兵力は5,000人。

今川軍は三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒にして、織田軍の城塞は次々と陥落していった。 信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日、幸若舞『敦盛』を舞った後、装具を身に付け出陣し、まず熱田神宮に参拝。

その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、本国駿河国に潰走した(桶狭間の戦い)。 桶狭間の戦いの後、今川氏はその勢力を急激に衰退させる。

これを機に今川氏の支配から独立していた三河国の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。当時、信長は美濃国の攻略のために斎藤氏と交戦しており、家康も甲斐国の武田信玄や駿河国の今川氏真らに対抗する必要があったため、利害関係が一致していた。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。

美濃攻略

斎藤道三亡き後、信長と美濃国斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。

対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。

永禄9年(1566年)には美濃国の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢国・長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。

こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[5]。 また、この頃から『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。 一方で信長は永禄8年(1565年)より伊勢国へ進出し、北畠具教など当地の諸氏とも戦っている。

上洛

斎藤道三亡き後、信長と美濃国斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。

対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。 永禄9年(1566年)には美濃国の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢国・長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[5]。

また、この頃から『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。 一方で信長は永禄8年(1565年)より伊勢国へ進出し、北畠具教など当地の諸氏とも戦っている。

上洛 織田信長軍 永楽銭(永楽通宝)の旗印 このころ中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者・三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。

久秀らはさらに義輝の弟・足利義昭の暗殺も謀ったが、義昭は細川藤孝、和田惟政ら幕臣の支援を受けて京から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。

信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。 一方で、美濃国と国境を接する甲斐国の戦国大名・武田信玄に対しては、信玄の四男・武田勝頼に養女(遠山夫人)を娶せることで同盟を結んだが、遠山夫人は武田信勝を出産した直後に早世したため、嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻関係を模索し、友好関係を保つ姿勢をとるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。 そして9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。

これに対して抵抗した南近江の戦国大名、六角義賢・六角義治父子は織田軍の猛攻を受けて観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。

六角父子は伊賀国に逃亡、以降はゲリラ戦を展開した。ただし六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀・六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。信長が上洛すると、それまで中央を押さえていた三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、他の三好三人衆に属した勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

こうして三好長慶以来中央政治を牛耳っていた三好・松永政権は、信長の電撃的な上洛によってわずか半月で崩壊し、代わって足利義昭を第15代将軍として擁立した信長による織田政権が誕生した。このとき、信長は義昭から副将軍の地位を勧められたが、既に足利将軍家を見限っていたため謝絶したとされる。

永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。

しかし、信長は豪雪の中を僅か2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せたといわれている[6]。 もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。

1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず、処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と、織田氏への服属を要求する。

これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三好三人衆が織田軍に敗退すると臣従を余儀無くされた。 伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。

永禄11年(1568年)には神戸具盛を降伏させ、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。

翌永禄12年(1569年)には伊勢国司である北畠具教も降伏させ、次男・織田信雄を北畠氏の養子として送り込む。のち具盛は幽閉され、北畠一族は殺害されている。こうして信長は、畿内における勢力を拡大していったのである。

第一次信長包囲網

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになる。

元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前国の朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍を開始する。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井氏に背後を突かれるかたちとなった。挟撃される形となり窮地に追い込まれた織田・徳川連合軍であったが、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉・徳川家康らの働きもあり、なんとか京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。

信長が京に帰還したとき、従う者は僅か10名ほどであったと言われている。 これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化した。義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺、石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。 対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。

浅井軍の先鋒・磯野員昌に15段の備えのうち13段まで破られるなど[7]苦戦しつつも、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

元亀元年(1570年)8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井長政・朝倉義景・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。

織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。対して信長は、9月23日未明に急ぎ本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。

しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻し、信長の実弟・織田信興を戦死に追い込んだ。いよいよ進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功した。大久保忠教の記した『三河物語』によれば、このとき信長は義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。

我は二度と望み無し」とまで言ったという。 元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち (1571年))。 元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。

しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に降伏した。 10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐国の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。

武田軍の総兵力は3万人。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江国、三河国に侵攻を開始する(西上作戦)。これに対して織田・徳川連合軍も抵抗した。

しかし、武田軍の武将・秋山信友に攻められた東美濃の岩村城では、城主・遠山景任が病死。その景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は、信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗するが、秋山信友はこのおつやの方に対して結婚戦術を持ちかけた。

おつやの方は信友と結婚することで開城・降伏し、坊丸は甲斐国に人質として送られ、東美濃の大半も武田氏の支配下に落ちた。

また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。

これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、

12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀らは討死した。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には三河国・野田城を攻略する(野田城の戦い)。しかも信玄の上洛に呼応するかたちで、将軍・足利義昭が三好義継・松永久秀らと共謀して挙兵。東西に敵を抱えた信長はまたも進退に窮し、4月5日、正親町天皇から勅命を賜ることによって義昭と和睦した。

包囲網崩壊

武田信玄の死去によって信長は態勢を立て直した。そうして7月、二条城や槇島城に立て籠もっていた足利義昭を破り、京から追放。

これをもって室町幕府は滅亡した。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。

天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。

信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に行軍。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害し、長政の母・小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した。なお、長政に嫁いでいた妹・お市の方らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。

9月24日、信長は尾張国・美濃国・伊勢国の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢国・長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島の一向一揆による抵抗も激しく、長期戦を嫌った信長は10月25日に撤退を開始する。

ところが撤退途中に一揆軍による追撃が始まると織田軍は苦戦し、林通政が討死した。

11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。

信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。

しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。

織田信長の人物像
織田信長の性格

「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(時鳥はホトトギス)

という歌がその性格を表していると言われているが、これは本人が作ったものではなく平戸藩主・松浦清(松浦静山)の随筆『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である(q:時鳥#川柳)。

また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ...」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍はあまりに気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。

『信長公記』によれば、浅井久政・長政父子と朝倉義景の三人の頭蓋骨に金箔を貼り、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。これは後世、杯代わりにして家臣に飲ませたという話になっているが、小説家の潤色であり、実際には使用していない。

髑髏を薄濃(はくだみ)にするというのは、死者への敬意を表すものである。 ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。声は甲高く、常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。

決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはほとんど無い。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。

自分をへりくだることはほとんど無く、自分以外の大名のほとんどを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ功名を極めている。

人と語るときには遠回しな言い方を嫌う」と記した。 世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたことが、京の公家などが記した日記などから窺い知ることができる。

織田信長の一部で苛烈といわれる所業

信長の事績の内容に対する評価は、時代や解釈する者によって大きな差がある。古い権威を否定するための断行的政策については当時から現代に至るまで非難が多い。

そのため、「冷酷非道な革命家」と評する者もいる。ただし、こうした非難については、信長の死後に天下を取った秀吉・家康の情報操作の可能性を考慮する必要がある。実際この二人は織田氏を警戒していたのか、冷遇しつつも後継者にはそれぞれ織田氏の血をひく者を当てており、死後もその影響力は大きかったようである。

当時の宗教勢力が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを鑑みてか、新井白石は、「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評した。 茶坊主に何らかの不手際があり、信長が激怒したことがあった。

茶坊主は怒りを怖れて棚に隠れたが、信長は棚ごと茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「圧し切り長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという。 元亀元年(1570年)5月6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが、未遂に終わっている。天正元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。

信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の極度に悪い竹製の鋸(のこぎり)で首をひかせ、長期間激痛を与え続ける拷問を科し、なぶり殺しにした。ちなみに、これは徳川家康も大賀弥四郎という家臣に対して行っており、江戸時代では公事方御定書に極刑の一つとして紹介されている。

天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛の交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利氏の家臣・安国寺恵瓊は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送った(ただし、この発言は信長の死後に流布したものであり、喧伝の可能性もある)。 天正6年(1578年)、畿内の高野聖1,383人を捕え殺害した。高野聖に成りすまし密偵活動を行うものがおり、これに手を焼いた末の行動であるといわれている。

天正6年(1578年)12月13日、尼ヶ崎近くの七松で荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔にし、鉄砲で次々と撃ち、槍・長刀で刺し殺した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。

「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」[19] 天正10年(1582年)4月10日、琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。

安土城と竹生島は距離があるため、信長は今日は帰ってこないと判断した侍女たちは桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと、安土城を空けていた。しかし、一泊すると思われていた信長は日帰りで帰還。

侍女たちの外出を知った信長は激怒し、侍女を数珠つなぎにした上で、老若問わずすべて惨殺した。侍女の助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じ方法で信長に殺されたと言われている。

ただし、桑実寺では、このとき殺害されたはずの長老の記録が本能寺の変以降も残っているため、実際には殺されていないとしている。

また、文献に「成敗された」とはあるが、侍女たちも殺害されたとは記録に無い。当時、縄目を受けるという成敗(処罰)の方法もあったことから、殺害にまでは至らなかったとの説もある。 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時としては取り立てて残虐というわけではなく、実際これ等の所業・処刑方法には、徳川家康等の大名も行ったものがあり、豊臣秀吉の天正5年に備前国・美作国・播磨国の国境付近で毛利氏への見せしめに、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑した行為(同年12月5日の羽柴秀吉書状)、武田信玄・上杉謙信等の敵を奴隷として売却すること(ルイ・ソテロ等、当時の伝道師の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為等もことさら珍しいことではなかった。

このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。

織田信長の肖像画

信長の肖像画としては、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの、および、兵庫県氷上町が所蔵する坐像(「#第一次信長包囲網」参照)が、そのように伝えられている。

このほか、ヨーロッパから来た画家によって写実的な肖像画[20]が描かれていたとも言われるが、太平洋戦争時の空襲により焼失している。

現存する写真によれば、太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、男らしくたくわえられた髭(ひげ)などが特徴である。

ただし、この肖像画に関しては史料的裏付けが無く、明治時代に行われた「忠臣」の顕彰事業時に作成されたとも言われている。青年のころは、女子と見まがう美男子であったとする記録もある。身長は約170cm程度で(比較資料:1 E0 m#脚注・出典)、500m向こうから声が聞こえたという逸話があるほど、かなり甲高い声であったという。

織田信長の交友関係

身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。

お盆では安土城の至る所に明かりをつけ城下町の住人の目を楽しませるといった行動から祭り好きでもあったようである。 上京以来朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから公家とも親交が深かった。

特に近衛前久とは最初は敵対していたにも拘らず、趣味の一致などと相まって特に仲がよかったようである。 当時の他の戦国武将同様、男色も嗜み、小姓の前田利家、堀秀政、後には森蘭丸の名で知られる森成利(異説あり)ら多くの稚児と関係を持ったと伝わる。

また、側室は権力の強大さに比べ少ないが数多くの子をなしている。

織田信長の南蛮への関心
織田信長の文化への関心